2005年J1第15節 FC東京 0 - 0 東京ヴェルディ1969(観戦43試合目)

日時:2005年7月9日19:00キックオフ
会場:味の素スタジアム
天候:雨ときどき土砂降り
主審:家本、副審:山崎、金田、第4審:穴沢
得点:無し(涙)
警告:戸川(1969;22分)、梶山(東京;34分)、小林大(1969;78分)、
   戸川(1969;80分、2枚目で退場)、ワシントン(1969;83分)、戸田(東京;87分)、
   李(1969;89分)


昨日はあんな結果だったうえ、傘を持たずに来たために土砂降りの中をぬれねずみで帰り、即ふて寝。
今日は朝からプールに行って、そのあと都心に出て買い物して、アミノバイタルでU-18の試合を見てから帰宅(10人の相手に引き分け。こんなところまでトップに似るなよ。トホホ)、やっとネットする気になって浦和のゲッベルス、じゃない岡田編集長のサポティスタを見たらあらびっくり。あんなことがあったのね。U席にいたけど全然気が付かなかった。


まず、被害者の方にお見舞い申し上げます(私が言ったってどうにもならんのだが)。
やったことは、もちろん立派な傷害罪。ひょっとしたら死人がでたかもしれない行為である。
やっちまった以上、実行犯は処罰されるべきだし、クラブにも主催者として責任はあるし、ひょっとしたら毎試合来ているくせにこの種の挑発行為に警鐘を鳴らさなかったうちらSOCIOにも責任はあるかもしれん。


だけど、あっちこっちのブログをのぞいていて違和感をもった。
緑サポさんたちが怒り狂うのはわかる。行進に参加しなかった東京サポーターが身内の恥を嘆き、実行犯(と行進に参加した人)を非難するのもわかる。わかる、わかるよ。だけど、なんか違う。みな、今度のことをアホな瓦斯サポがまたやったぐらいにしか思ってない?。自分とはまったく異なる、ただの乱暴者がしでかしたことだと思ってない?


違うと思う。誰もが、昨日の実行犯になってしまう要素を持っていると思う。
サッカーってその出自からして野蛮なスポーツだ。そして、サッカーを観るということも、しばしば野蛮な行為になりえる。
ピッチで切れ目無く続けられるプレーに対し、集団で熱狂する。繰り広げられるプレーは多くの場合、予想を裏切り、結果は矛盾に満ちており、努力は報われないことのほうがおおい(一部ビッグクラブのファンを除いて)。
おまけに対戦相手である「敵」との種族的な対立感情まで加わる。


その結果、ファンは激昂する。集団心理もあいまって、感情はしばしば沸騰寸前にまで高まる。普段は隠されていた蛮性が頭をもたげ、サッカーを観る者一人一人に容赦なく課題を突きつける。いかに自分の暗黒面(帝国の逆襲を観ながら書いてるもんで)と向き合うかということを。


でも、それがサッカーの魅力でもある。品行方正、礼儀正しいよい子のスポーツだったら、誰が見に来る? 普段の生活と同じ、ルールとしがらみとたてまえで固められたスポーツだったら、誰が月に二回も大分までいく?
少なくとも私は行かない。平均2000円のチケット代と、3000円のビール代と(←飲み過ぎです)、時に往復数万円にもなる交通費と、プライベートの大部分を費やし、本業の少々を犠牲にして参加する週末の祭りにそぐわない。
サッカーは、自分の中に沈殿した、暗いドロドロした感情を汲み出し、噴出させることができるからこそ面白いのだ(と私は思うよ)。
だから人があつまるんだよ。


なんで、フェアプレーが強調されるのか?。「清く正しく」を執拗に強いるのか?。そうでもしなければ競技として、興業として成立しないからだ。この野蛮な球蹴りを、なんとかして文明社会に定着させるための道具だ(抹香くさいけど、よく考えられた道具であるとは思う)。
フェアプレーは、蛮性の中にあるからこそ、美しくみえるのだ。


先日の落書き事件にしろ、昨日の灰皿放り投げ事件にしろ、負の感情をもっとも稚拙なかたちで発露してしまったことはたしかだ。
でも、ただ良識や常識で一刀両断にして、非難して、それですむのかい?
「おれには理解できない」でいいのかい?


誤解覚悟で書くと(誰も読んじゃいないだろうけどw)、今、実行犯を糾弾している人たち、あなたたちの言葉の源となっている感情は、彼が灰皿を放り投げた時の感情と、同根のものでないと断言できるのか?
あなたが、この先も、いかなる状況でも、群集心理にとらわれず、西山電にならないと断言できるのかい?


いや、絶対ああはならないと断言できるなら、それでいい。皮肉じゃなしに、本当に尊敬する。
負の感情をしっかりコントロールして、論理に基づいた行動を取れる、それが成熟した人間の証だから。
でも、所詮は愚かな行為と切り捨てる前に、一度自分の中をのぞいてみて欲しい。そこに何が居るかを確認して、そいつらとどう向き合うか、考えてからでも遅くはないと思う。


普段は細かいだけの試合レポとエセ戦術論を展開している輩がこんなことを書いているのも、実はあんなことをしないと断言できる自信がないからだ。いや、スタジアムで人を殴ったり、口論になったりしたことはこれまでに一度もないよ。端からみれば、俺なんてちょっとマニアックな「一般」にしかみえないだろう。でも、群集心理というガソリンをたっぷり振りかけられたらどうなるか、自信はない。未熟な人間と言われればそれまでだけれど。


でも、自分に何ができただろうね。去年のナビスコ東京ダービーの時は、「行進」を目撃していたのだから、そのときクラブに群衆心理から事故が起こる可能性のある旨を指摘するぐらいかな。うちのクラブのことだから、文章力さえあるなら、しっかり受け止めてくれた可能性は高い。もっともそのときは、危機感もなにもなく、ただまた緑をイジってるな、としか思わなかった。


甘いといわれりゃそれまでだが、でも、まだ無邪気に信じていたのだ。
あの古き良き(ってそんな昔のことまで知らないんですが)時代がまだ続いていたと。


ぎりぎりまで高ぶった感情を発露する手段はいろいろある。赤いチームみたいにひたすら声をはりあげる(あるいは警察沙汰にならないよう、反社会的行為の手段をより洗練されたものにする?)、鹿さんみたいに上半身脱ぐ(??)、鞠さんみたいにギャルサポに癒しを見いだす(???)。まあ、いろんなことを乗り越えて来たJ発足以来のチームに比べれば、うちはクラブもファンもまだまだ経験不足かな。いまは一番とんがっている時期だろうし、ここを通過すればそれなりに「洗練された」表現方法を持つようになっていくと思うのだけれど(毒舌は変わらんでしょうが)。


出身地が出身地なんで(RKU所在地の隣接市町村のどれか。田舎です)、なんちゃって鹿ファンだった私を東京に引きつけたもの。当時の背番号11番もそのひとつだが、それはなんといってもゴール裏の多芸多才なコールだった。感情が暴噴し、あっちの世界への行ってしまいそうになるとき、そのとき彼らは毒舌とユーモアでその境界線をさらりと渡って見せた。あっけにとられた。笑った。こんな雰囲気の中でなら、貴重な週末の午後を過ごしてもいいと思った。


でも、それは変わった。オフィシャルによれば、実行犯にはクラブが把握しているサポーターとはなんの交友関係もなかったという。そうなってしまったのだ。クラブのメッセージが届かない人間が、ひょいとゴール裏に入ってきて、実はお約束がたくさんあるはずのイベントに参加して、感情のままに事件を起こす。もう、そうなってしまったのだ。


オフィシャルのメッセージは、クラブが西山電なんか関知しないって言ってるんじゃない。あれは心から嘆いているんだよ。古き良き時代が終わってしまったことを。もう、あの西が丘や江戸川が帰ってこないということを。


もちろんそれは悪いことばかりじゃない。いまや、10試合勝ち星なしのチームの試合に、2万6千が集まるのだ。
でも、量と質は反比例するとまではいわないけど、スタジアムに集うもの全てになにかの意図を浸透させることは難しい。
2万人は2万人のルールで動く。2千人のときの手段は通用しない。予想もつかない行動を取る輩は、一定の割合で出現する。その点、結果的にクラブの認識が甘かったといわれればそのとおりだけれど。
これまでクラブはファンを信じてくれてきたと思っている。これからは、ある意味でファンを信用しないでほしい。興業のプロに徹して欲しい。


それはとてもいやなことで、寂しいことではあるけれど、時計の針は戻らない。
こんなことがあっても、これからも東京のホームゲームに集う人たちは増えていくだろう。
なぜなら、そこには、頑固で不器用でとてもナイーブな選手たちが、どういうわけか魅力的にプレーする姿が見られるから。集団の熱狂というのは、それだけで人を引きつけるから。少々殺伐とした雰囲気がただよっても、いやそうであるからこそ、人は集まっていく。
スタジアムは様々な人の、様々な思いを飲み込むからこそ面白いのだ。
ときに心の中の大事なものが、汚されたような気持ちになっても、もう受け入れるしかない。
そして、その中であがいていくしかないのだ。


We'll never walk alone...

追記:
え、試合でっか。いやーあいかわらずですねえ。今日はユースにまで伝染しちゃって。トホホ。

追記の追記:
今日は慣れないネタで書いたので疲れた。
明日は早めに帰れれば(これがくせ者)総理大臣杯決勝のネタで(録画があるのだ。GAORAえらい)ちょっと書くつもり。