灰皿のこと(たぶんこれで最後)

いやー、一昨日のエントリを読み返してみたんだけど、整理されてない感情が入りまくりだね。論旨不明瞭、読みにくいことこの上ない。
でも、なんか、書かずにいられなかった。
この2日間考えて、なんとか考えがまとまったので、繰り返しになることも多々あろうけど、書いてみる。
この事件について書くのは、たぶんこれが最後だ。


最初に言っておくと、私は、数と力にものを言わせた行為が嫌いだ。だから、浦和は嫌いだし、茨城出身ながらなんちゃって鹿島ファンに終わってしまったのも、彼らのスタイルになじめなかったからだ。


だから、あの行進はどう言いつくろおうと弱い者いじめだと思っている。十数分の一のライバルチームサポーターを、水に落ちた犬は叩けとばかり(いや、こっちもどっぷり嵌っているのだが)、数にものを言わせていたぶろうとした。単なる内輪の祭りと思っていた人もいるようだが(実をいえば私もその程度にしか思っていなかった)、わざわざ境界柵まで行って煽るということは、そういうことだ。
弱肉強食。それをそのまま実行してしまった。


では、それは悪いことなのか。残念なことだが、弱肉強食はこの世の理だ。そして、この国に生きる人なら、大半がその恩恵に浴している。週末毎(下手をすれば平日も)、整った環境で球蹴り見物にうつつを抜かしていられるのは、この国が経済力にものを言わせて世界中から資源をかき集め、私たちの生活にある程度の余裕を作り出しているからだ(収奪と表現する人もいる)。


ゴール裏を聖域と表現する人がいる。そう、声を上げ、飛びはね、チームのために戦おうとする人たちの聖域だ。でも、そこは最初から聖域だったわけじゃない。チケットには「自由席」とか、「○○ゾーン」と書いてあるにすぎない。「サポーターズエリア」という、どうにでもとれる、あいまいな表現の場合もある。決して、「解放区」とか「保護区」、あるいは「隔離ゾーン」とは書いていない。もちろん「聖域」なんて言葉はどこにもない。


じゃあ、どうして「聖域」になったのか。それは、ゴール裏の住人たちが自らの力で勝ち取ったからだ。一家で一番安い席に来た人を、得点シーンを目の前で見たいという人を、ゴールネットの真裏でキーパーのプレーをじっくり見たいという人を、ある時は説得し、ある時は数と声量にものをいわせ、ときにはちょっとした示威行動を行って駆逐した。そして行動を積み重ね、既成事実化し、いつのまにか「作法」とか「暗黙の了解」などという形である種のルールとして通用し始め、知らない人はバカ呼ばわりされるようになった。
でも、その源にあるのは弱肉強食の論理だ。彼らの主張に正当性はない。ただ正当だと主張したたけだ。
あの「行進」と「聖域」の間に本質的な違いはない。
声の大きなやつが、行動を起こしたやつが、勝っただけだ。


それを悪いというつもりはない(私の本職も収奪といえば収奪だし)。結局、善悪の問題じゃなくて生死の問題だ。自分たちのテリトリーを確保しなければ生きている気がしないから、やっているだけだ。


でも、一つだけやってならないことがあると思ってる。人の命にかかわるような行為はしてはならない。サッカーは戦争じゃない。戦争ごっごにすぎない。ごっこで済まないことをすべきではない。死ぬ気でやるのはいい。でも、死んだらサッカーはできない。


でも、あの事件は起きてしまった(事故と書くと叱られるらしいw)。
その原因はなにか。想像力の欠如だ。


一昨日のエントリーにも書いたとおり、灰皿の蓋を投げてしまう可能性は誰にでもあると思っている。私たちは、彼と同じだ。ただ、ヒューズの個数が多かったり、電流が危険値に達するような場所に身を置いていないだけだ。
私たちに決定的に欠けていたのは、ヒューズの個数を増やす努力だ。危険値に達する前に電流を下げる、あるいはうまく逃がしてやる工夫が足りなかったのだ。


フロントはいつものように最後はシャレで終わるだろうと思ってあの行進を黙認した(シャレにならない予兆は前からいくつかあったようだが)。ネットを見る限り、行進の主催者は内輪のお祭り気分のまま、境界柵まで乗り込んだ。私もふくめたゴール裏以外のSOCIOは、なにをやっているか薄々知りながら、どうせ大したことにはならんだろうとたかをくくっていた。
誰も、身内から爆発する人物が出てこようとは想像すらしなかった。


フロントは大甘だ。サポーターを理解したつもりが、いつの間にか同じ思考パターンになってしまった。迎合してしまった。興業のプロとして失格だ。このことで、勝ち点剥奪をくらっても仕方がないぐらいの重罪だと思ってる。あの行進を許容するなら、「一般」さんを人払いのうえ、両サポーターの距離を灰皿の射程外に保つべきだった(むろん極論よ、極論。念のため)。行進主催者は、あえて実行するつもりなら、あれだけ人が集まれば不測の事態が起こることを想定し、ただの祭りで終わらせるような行動にとどめるべきだった(バクスタ中央で引き返すとか)。SOCIOも含め、毎試合のようにスタジアムに来ている人間は、実行予告らしきものが出ていたのだがら、あの行為の危険性について警鐘を鳴らすべきだった。私も、去年あれを目撃した時点で、なんでクラブに警告しなかったんだろうと反省している。


そして、あの試合、スタジアムにいた人たちへ。
今、留置場にいるだろう彼に、「あいつは仲間なんかじゃない」などと言わないで欲しい。
私だって、一瞬、「東京サポーターの恥さらし」と思ってしまったよ。だけど、それは違う。
彼は、「友人・知人」じゃなかったかもしれないけれど、我らの同族だ。あれは、私たちの同類が起こした傷害事件だ。
ネット上の情報によれば、彼は毎試合のようにスタジアムに来ていたらしい。
つまり、私らと一緒で、東京が好きで、いつも試合を見に来ていたのだ。
ただ、彼はなにかのきっかけでショートしてしまった。私たちは、幸運にもそれを免れた。ただそれだけのことだ。


で、これからなにをすべきかなんだけど・・・ここからさらに陳腐になるかな?
とりあえず、私たちは、自分の頭で考えて行動すること。お祭りを始める前に、その意味を考える。意味を考えてから、行動に移す。おかしいと思うなら、どんな形でもいいから声を上げる。
フロントは、プロに徹すること。サポーターに迎合しないこと。もう、あの西が丘は、江戸川は、帰ってこない。飛田給には別のやり方が必要だ。
残念ながら、私たちが人間であるかぎり、暴力行為の根絶はできない。自分とは違う誰かを憎悪することは、人の性だ。差別は、人間の根源的な感情だ。
でも、対処療法はある。人の人たるゆえんは、曲がりなりにも、一時的にでも、本能を抑制する手段を見いだしたことだ。
すこしでも、敷居を上げよう。虚構を虚構として楽しめるように。私たちが、彼らが、サッカーをできるように。


想像力の欠如って書いたけど、人は不完全だ。未来を的確に予測して行動を起こせる人物はごく少数だ。大半の人は、失敗からしか学べない。それも、何回も何回も失敗を犯してから学習する。そして自分のことを棚に上げ、学べない者を嘲笑する。
本当に幸いなことに、今回の事件で死者は出なかった。そのことに、最大限の感謝を捧げつつ、前を向こう。しばらくはあれこれ後ろ指を刺してくるやつらがいるだろうけど、いつものシャレで笑い飛ばそう。
いままでどおり、選手たちに声援を送ろう。だって、かなり危ないんだよ(苦笑)。


というわけで、明日は会社休んで清水行きます(ああ、不良サラリーマン)。


それと、最後に、この事件を起こしてしまった人へ。
まあ、やっちゃったことはやっちゃったこと。いまさら悔やんでもしょうがないでしょう。
でも、裁きと償いが終わったなら、もう一度スタジアムに来ないかい?
味スタに行きにくいんだったら、西が丘なんでどうだろう。
一緒にビール飲みながら(おごるよ)、中央大対順天堂なんて見ないか。
(いや、こんな酔っぱらいのオッサンといっしょなんてごめんだろうけどwww)。
でもさ、一度見に来てくれよ。両チームとも、左サイドにいい選手がいるんだ!